野外教育研究所IOEは、 野外教育、環境教育を 行う民間の事業所です。

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いついつ BOSS 通信 Vol.19

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  2008.4.30. Vol.19
 
      ☆☆☆☆☆  いついつ BOSS 通信  ☆☆☆☆☆
          
       
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私の友人・知人のみな様、こんにちわ!!

いつ来るか分からない。いつか来る。いつでも来る。(不定期発行)"の
「いついつ BOSS 通信」は、私、山口久臣が、みな様に、
環境教育、野外教育、国際交流、自然学校、体験活動、環境地域づくりなどの
おもしろい&耳よりな情報や私の"思い"をお伝えさせていただくメールです。

皆様、お元気でしょか!? ますます、ご活躍の事と存じ上げます。

今回初めて、お送りさせて頂きます方々へは、大変失礼致します。
BOSS(ボス)は、私のキャンプ・ネーム&ネックネームです。

どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
"そんなのいらんゾ!!"という方は、いつでも"お断りメール"を下さいませ。
                            山口久臣(BOSS)
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  目  次
【1】アジアの雄、九州の雄、古賀武夫を偲ぶ

今回は、佐賀県在住で国際交流・国際協力・国際教育、環境地域づくり界では
逸脱した才能を発揮しアジアの雄、九州の雄とも云うべき豪放磊落なる男、
我が"アニキ"分であった古賀武夫氏が、去る3月17日に58歳の誕生日に
10日ほど及ばず内に逝去してしまいました。
彼の業績や活躍、遺訓をわずかばかりですが私なりにお伝えしたくて力足らざ
るままに書かせて頂きました。


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【1】アジアの雄、九州の雄、古賀武夫を偲ぶ      
        (特活)コミネット協会、(特活)地球市民の会 山口久臣

 アジアの雄、九州の雄であり、(特活)地球市民の会会長、(特活)コミネッ
ト協会副会長であった古賀武夫が他界してしまった。本当に淋しく、そして悲
しい。私は長い事、尊敬と親しみの念を込めて先輩である彼のことを"アニキ"
と呼ばせてもらった。もうこの世の中に彼の肉体が存在しないことが未だ信じ
られない思いだ。
 私が初めて古賀武夫と云う雄に出逢ったのは昭和60年、1985年のことだった。
この年は国連が定めた「国際青年年」と云う年で、「参加、開発、平和」の
スローガンの下、世界中で青年たちによるあらゆる社会参加活動が活発に展開
された年であった。そんな中この年の8月に湯布院で「日米青年交流会議」と
云うイベントが行なわれた。この席で出逢ったのだが、その風貌からはとても
想像出来ないほどのずば抜けた英語力、堪能なる仏語力、極めつけは坊主頭に
空手の高段者、鋭い目つきで周囲を見回す様は何とも迫力があり圧倒された。
彼はこの時にはすでに「地球市民の会」と云う国際交流の民間団体(当時はま
だNGOともNPOとも言ってなかった。)を立ち上げて3年目だった。当時
は、全国的に国際交流が盛んになり始めていた頃で自治体もこぞって国際交流
の担当部署を作り始めていた。そんな中で"地球市民"と云う言葉はとてもイ
ンパクトがあった。古賀武夫、35歳の夏のことである。
それから彼との付き合いが始まったのだが、とにかく灰汁(あく)が強い。
強烈な個性。弁が立つ。おもしろい。人を飽きさせない話題の抱負さ。豪快さ。
突出した行動力とリーダーシップ。人脈の広さ。酒大好き!!等などとどれを
とっても彼を表現をするには枚挙に遑(いとま)がない。またよく笑い、よく
人を笑わせ、ダジャレや毒舌を連発し、よくしゃべり、また感動してよく泣い
た。喜怒哀楽が本当に豊かな男であった。
 彼が残した言葉の中で何よりも私が好きな言葉は、"感動なくして何が人生
ゾ!!"である。
更には彼は生きている中でいろいろな事業や活動をエネルギッシュに展開して
行った。本業とした「古賀英語道場」、「和道流古賀空手道場」(彼にとって
は"英語道"であり、また和道流空手は七段師範でもあった。設立25年を越え
るこの名門道場からは多くの優秀なる門下生や卒業生、弟子たちを輩出してい
る。)は勿論のこと。1986年から地球市民の会で始めた「小さな地球計画」。
これは日本に来ている留学生を夏休みに佐賀に招き2週間のホームステイ交流
をとおしてお互いが持っている民族・暮らしや文化をぶつけ合い交換し交流を
するプログラムで10年以上続いた。同じ頃に始まったのが日本語を学んでいる
韓国の青年たちを年末年始の2週間、九州内の町や村に招いてホームステイ交
流をするプログラム「カチガラス計画」だった。
この「カチガラス計画」には多い時には150名以上の韓国の青年たちが参加を
した。このプログラムは民間の事業としては、日韓の相互理解と交流を促進す
るのに大きな成果を残すことが出来た。また古賀武夫が本格的にアジア交流を
始めたのが1987年からであった。その切っ掛けとなったのが、今は亡き同志
「ジャナロン・メキンタランクラ」との出逢いによってである。彼は多くの仲
間たちや同志をさそって(否、騙してか煙に巻いてかナ!?)随分とタイに通
った。古賀とジャナロンに魅せられて、タイの田舎が持つノスタルジーや心の
豊かさに惹かれて、"タイ病患者"続出だった。私とてその例外ではない。彼
らのお陰で"アジア"に開眼したと云っても過言ではない。
これらの活動だけ考えてもその想い出は限りない。楽しく元気で感動的で懐か
しく夢にあふれていた。記憶の中でいつもみんなで笑っている。彼は、その後
もいろいろな事業(「人間の翼」の映画づくり、ゼロ戦の復元、夢の学校づく
り等など)を仕掛けては周囲を疾風怒涛の如き嵐に巻き込みつつもまた多くの
感動を与えて行った。
 そして彼はいつも"みんなの幸せを世界の平和を!!"を口癖のごとく言い
つつ彼自身は決して私欲に走ることがなかったのである。彼が目指したものは、
「地球市民運動」の推進であり、「地球共感教育」の実践であった。この詳細
なる解説は他に譲るとしてその要点は、
命のつながりを知り、学び、感じて心豊かに大らかに人と人、人と自然、人と
社会を豊かにつなぎ感動ある人生を明るく楽しく元気よく!!堂々と生きて行
くことを実践することを説いたものだと私なりに解釈している。
彼はあの比類まれなる才能によりもしかしたら政治家や企業家を目指したなら
ば大成功を修めていたかもしれないと思うことも多々あったが、それらに野心
を持つことなく一庶民として一思想家、一実践家、一武道家として、そして云
わばNPO,NGOの元祖の一人として生きたことに大いなる価値があると思
えてならないのだ。
後で聴いたのだが彼は亡くなるひと月ほど前に相当きつかったであろうに自ら
車を運転し写真館に赴き、まるで明治維新の頃の志士の如き装いで日本刀を構
えて記念撮影(?)をしているのである。その表情は実に大らかで明るく、病
のかけらなど微塵も感じさせないものであった。私はこの話を聴いた時に、ま
さに「古賀武夫流武士道」、「男の美学」であったに違いないと心から思えた。
 人間はその生き方が死に方を決める。死に様は、生きて来た人生の総決算=
生き様とも云えるのだ。そして彼は愛する聡明な夫人と心優しき娘・息子たち
に見送られながらその最期の時を迎えて逝ってしまった。この偉大なる現代の
武士、古賀武夫にもう今生で出会うことは亡くなったのだが、また必ずやいず
れかの人生で再会出来るものだと信じて止まない。


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またまた長くなって、ごめんなさい!!